外付け海馬

備忘録

永遠よりも遠い時間(ムージル の「合一」概念について)

己の文学の最終目標をムージルは「合一」という言葉で表した。彼は生涯この境地を書き表すことを目指した。

 小説『愛の完成』では、ある女の合一の境地への気づきと、そのための実践、そして合一への予感が描かれる。女は夫と愛し合い、互いに心の通じ合った満ち足りた生活をしているが、しかしそれも完全ではない。互いが即互いであるような、愛の究極の境地には達していないことに女は気づく。女は学校に通わせている娘の面談のため、遠く離れた土地へ出かける。女は駅構内、汽車内、馬車内で様々な考えと夢想をめぐらすが、ついにある決心をする。それは、夫婦二人の愛を完全なものにするために、行きずりの男に抱かれ、二人の愛を遠ざけるということである。

 ここに合一という言葉の要点が一つある。本当に完全に愛され愛し合うためには、区別する愛ではなくて区別しない愛へ達する必要があるということだ。ということは、無償の愛、隣人愛、アガペーも一つの合一なのだろうか。しかし神の子から与えられた愛は行きずりの男と関係を持つことを許すだろうか。許すかもしれないが、それははっきり「罪」の刻印を推されたうえでの慈悲であろう。では罪人こそが完全な愛にたどり着けるのだろうか。少なくともムージルの言いたいことはそうではあるまい。

 ムージルの書いていること(女の行っていること)は、愛の解体、罪の解体、そして自他の解体である。不実を犯すことによって、夫婦の狭い意味での愛は離れ、遠のくことになる。この場合、夫がそれを知るか知らぬかは大した関係がない。狭い意味での愛とは、愛し合う双方の合間に生まれるものであるから。ここで一般的な意味の愛は失われ、愛に新しい意味が生まれる準備がなされる。次にこれは愛の完成のためになされる不実であるから、いわゆる本質的な罪はここに存在しない。もちろん社会通念的・宗教道徳的にこれが罪となされないという場合は考えにくいが、そもそも女がこの不実を罪と感じてしまうなら、それは愛の完成を自ら放棄する感覚であり、この試み自体を阻害するものである。罪という概念は意味をなさず、新しい認識の下地ができる。

 そして愛の完成へ導く最も大切な過程が、自他の解体である。これは自分と他人を区別するということではない。逆に、自分と他人を区別するものを解体し、世界と合一するということである。不実を行うことによって、夫との距離は限りなく離れていく。孤独な両者が世界の末端まで相遠ざかり、絶対的な孤独の領域へ達したとき、はじめて自他の区別が滅却され、合一の境地が顕現するのである。奇妙なのは、これが合一という統合への過程であるにもかかわらず、ここで行われているのは徹底した解体の作業であるということだ。

 これは決して矛盾したことではない。狭い意味での世界を構成する諸概念を否定して、万物がそこから生まれ戻っていく根源をかいま見ようとする営みなのである。そして、本当の矛盾が出来(しゅつらい)するのは、この合一に達した瞬間である。そもそもこの場合の根源とは、あらゆる区別がなく、「区別がない」もまたないような、本来言葉にしようのないものである。人は言葉によってしか世界を捉えられないから、根源を捉えようとして言葉を使うほかない。解体作業にも、言葉は使われている。言葉による狭い世界の否定、自らの行動の規定、完成した愛の認識。だから体験は一瞬なのである。「永遠の愛の完成」などというものはありえない。そもそも、永遠とは終わりという概念を前提としたものだから、何かを永遠であるとしたり、永遠にあろうとしたり、永遠にあれかしと願うことは、終わりの否定ではなく、終わりより優れたものでもなく、終わりの一歩手前、ついに終われないもの、に過ぎない。

 愛の完成は一瞬であるがゆえに、根源に触れることができる。触れたとき、あるいはそれは仏教でいう涅槃に近いものである。全てが全てによって生まれている世界、これは決して何もかもがドロドロに溶けあって一つになっているような世界ではない。全てが別の全てに対して同一性を持たないがゆえに、全てが別の全てによって置き換え可能な、可能性世界である。愛の完成の一瞬は、同じ世界を違う風景としてみることができる時間である。それは永遠よりもどんなにか遠い場所にあるものか。