外付け海馬

備忘録

菜食主義者の猫と、自分を猫と思い込む鼠(『1Q84』と『豊饒の海』)

 世界にネズミと猫の話は数限りありませんが、日本語で書かれた長編小説『1Q84』と『豊饒の海』にも登場します。

 この二つの話の共通点の一つは、両方とも自分の属性を否定するようなユニークな主張(思想)を持ったキャラクターがいるところです。これらは作品から抜き出してもなかなか興味深い寓話です。

 以下は要約と共通点・相違点を少し載せています。


1Q84』のネズミと猫の話(BOOK2・第5章)
 ネズミが猫に出くわした。
 ネズミは猫に、「お腹を空かせた子供が待っているから私を食べないでください」と頼んだ。猫はネズミに、「自分は菜食主義者だから肉を食べないので心配しなくていい」と答えた。ネズミは幸運を喜んだ。
 が、すぐさま猫はネズミに爪を立てて捕えた。ネズミが猫に、「菜食主義者というのは嘘だったのか」と訊ねると、猫はネズミに、「それは嘘ではないがネズミを持ち帰ってレタスと交換するつもりだ」と答えた。

 

豊饒の海』の鼠と猫の話(『天人五衰』・十七)
 自分のことをネコだと思い込んだ鼠がいた。
(その鼠は、他の鼠が本当は自分の「餌」にすぎないが、自分が猫だとばれないように他の鼠を食べないでいるのだと信じた。)
 ある日、その鼠は猫に出くわした。猫が鼠に、「お前を食べる」と言った。鼠は答えた。「私は猫だ。猫が猫を食べることはできないから、私を食べることはできない」

 猫は笑って鼠を食べようとした。鼠は猫に、「なぜ食べようとするのか」と訊いた。猫は、「お前は鼠だから」と答えた。鼠はそれを否定した。猫は、「お前が猫だと証明してみろ」と言った。
 いきなり、鼠は洗剤の容れてある盥に飛び込んで死んだ。猫は洗剤を舐めてみた。食えたものではなかったので、猫は鼠の死骸を置きざりにして立ち去った。

 

共通点
・猫が原因で鼠は死ぬ。
・猫は鼠を食べ(られ)ない。

同種が餌をもたらす。
菜食主義者の猫は、レタスを交換する相手がいる。おそらく他の猫。
・自分を猫と思い込む鼠は、他の鼠を「餌」だと思っている。

 

主張されること

1Q84
猫は、自分が菜食主義者だと主張をする。
・猫が菜食主義者だということは、肉を食べることではじめて嘘になる。レタスのためにネズミを殺すことは、菜食主義者だという可能性を否定しない。

豊饒の海
鼠は、吾輩は猫であると主張する。
・鼠が猫だということは、はじめから事実ではない。自殺については、「食えたもんじゃない」点で猫であることを示そうとするとも受け取れる。


死後の処理
・死んだ後、ネズミ(1Q84)はレタスと交換され、他の猫に食べられるかもしれない。

・鼠(豊饒の海)は洗剤まみれのため、食べられない。

 

 菜食主義者の猫と、自分を猫と思い込む鼠が出会ったら、どんな物語が生まれるのでしょうね。世の中に物語の種は尽きません。

永遠よりも遠い時間(ムージル の「合一」概念について)

己の文学の最終目標をムージルは「合一」という言葉で表した。彼は生涯この境地を書き表すことを目指した。

 小説『愛の完成』では、ある女の合一の境地への気づきと、そのための実践、そして合一への予感が描かれる。女は夫と愛し合い、互いに心の通じ合った満ち足りた生活をしているが、しかしそれも完全ではない。互いが即互いであるような、愛の究極の境地には達していないことに女は気づく。女は学校に通わせている娘の面談のため、遠く離れた土地へ出かける。女は駅構内、汽車内、馬車内で様々な考えと夢想をめぐらすが、ついにある決心をする。それは、夫婦二人の愛を完全なものにするために、行きずりの男に抱かれ、二人の愛を遠ざけるということである。

 ここに合一という言葉の要点が一つある。本当に完全に愛され愛し合うためには、区別する愛ではなくて区別しない愛へ達する必要があるということだ。ということは、無償の愛、隣人愛、アガペーも一つの合一なのだろうか。しかし神の子から与えられた愛は行きずりの男と関係を持つことを許すだろうか。許すかもしれないが、それははっきり「罪」の刻印を推されたうえでの慈悲であろう。では罪人こそが完全な愛にたどり着けるのだろうか。少なくともムージルの言いたいことはそうではあるまい。

 ムージルの書いていること(女の行っていること)は、愛の解体、罪の解体、そして自他の解体である。不実を犯すことによって、夫婦の狭い意味での愛は離れ、遠のくことになる。この場合、夫がそれを知るか知らぬかは大した関係がない。狭い意味での愛とは、愛し合う双方の合間に生まれるものであるから。ここで一般的な意味の愛は失われ、愛に新しい意味が生まれる準備がなされる。次にこれは愛の完成のためになされる不実であるから、いわゆる本質的な罪はここに存在しない。もちろん社会通念的・宗教道徳的にこれが罪となされないという場合は考えにくいが、そもそも女がこの不実を罪と感じてしまうなら、それは愛の完成を自ら放棄する感覚であり、この試み自体を阻害するものである。罪という概念は意味をなさず、新しい認識の下地ができる。

 そして愛の完成へ導く最も大切な過程が、自他の解体である。これは自分と他人を区別するということではない。逆に、自分と他人を区別するものを解体し、世界と合一するということである。不実を行うことによって、夫との距離は限りなく離れていく。孤独な両者が世界の末端まで相遠ざかり、絶対的な孤独の領域へ達したとき、はじめて自他の区別が滅却され、合一の境地が顕現するのである。奇妙なのは、これが合一という統合への過程であるにもかかわらず、ここで行われているのは徹底した解体の作業であるということだ。

 これは決して矛盾したことではない。狭い意味での世界を構成する諸概念を否定して、万物がそこから生まれ戻っていく根源をかいま見ようとする営みなのである。そして、本当の矛盾が出来(しゅつらい)するのは、この合一に達した瞬間である。そもそもこの場合の根源とは、あらゆる区別がなく、「区別がない」もまたないような、本来言葉にしようのないものである。人は言葉によってしか世界を捉えられないから、根源を捉えようとして言葉を使うほかない。解体作業にも、言葉は使われている。言葉による狭い世界の否定、自らの行動の規定、完成した愛の認識。だから体験は一瞬なのである。「永遠の愛の完成」などというものはありえない。そもそも、永遠とは終わりという概念を前提としたものだから、何かを永遠であるとしたり、永遠にあろうとしたり、永遠にあれかしと願うことは、終わりの否定ではなく、終わりより優れたものでもなく、終わりの一歩手前、ついに終われないもの、に過ぎない。

 愛の完成は一瞬であるがゆえに、根源に触れることができる。触れたとき、あるいはそれは仏教でいう涅槃に近いものである。全てが全てによって生まれている世界、これは決して何もかもがドロドロに溶けあって一つになっているような世界ではない。全てが別の全てに対して同一性を持たないがゆえに、全てが別の全てによって置き換え可能な、可能性世界である。愛の完成の一瞬は、同じ世界を違う風景としてみることができる時間である。それは永遠よりもどんなにか遠い場所にあるものか。

遠くの、その地点から

 関連の必然性と区分の内在的成立とが事柄そのものの展開の中から出て来なければならない。なぜなら、それらは概念自身の展開に属するものだから。概念の中に区分は内包されている。疑問。始源はどのような過程を経て世界となったのか。


あるものを考えるとき、それに対する考えは対象の物に属しているから、存在は考えと対立する。

「物語、見せかけの因果律、見せかけの心理学への嫌悪」

Musil日記

「了解済みの生だという持続的な感情を、日毎に生み出しているこうした夕べの平和をつくり出しているのが」、「悟性が行う一種の遠近法的短縮」

MoE

 ムージルは彼の思想のうちで最も重要なことを作品のうちにはっきりとは書かなかった。
クラリセが、

ニーチェとキリストは、中途半端だったから破滅したのよ!」

MoE

 と絶叫するとき、そこに著者の苦い顔が浮かぶ。果して『特性のない男』の著者は、彼もまた中途半端だったのだろうか? 私には、彼はニーチェやキリストの辿った線を一応に回避することはできたが、また新たな「中途半端さ」に直面したのだと思える。

すべては、あたかも或る極点が到達されでもしたかのように起るのであり、それが作品の通常の諸手段を破戒し去っている。

『来るべき書物』

 しかしさらに困ったことには、間違いなく次に進むべき道はムージルが彷徨った地点、われわれをどこへ連れていくのかわからない地点から出発しなければならないことだ。

彼は「私はこれ以上遠くへ行くことは出来ない」と、悲愴な調子で書いている。この結論は、われわれがこの書物のおかげで、いかに遠くまでおもむいたかを思い起こさせはするけれども、おそらくこの書物の意味するところをもっとも尊重した結論であろう。

『来るべき書物』

 このような記述は、われわれをおののかせ、彼のひとり歩んだあとを追うことを躊躇させる。そしてその道を通行止めにし、看板にでかでかと「越えられない壁」とでも書いて安心してしまう。(この作家と批評家と二人の)著者がそのように望んだか望まなかったかは別として、「いったん、よく知った道までバックして、やり直しましょうや」ということである。現に、われわれは二世紀ほど後ずさりしてやり直している(そしてそれはちゃっかりと「進歩」と呼ばれる)。

彼が生きているのはもはや出来事の世界ではなく可能性の世界であって、そこには、物語りうるような何ものも起らない。

『来るべき書物』

このような世界を前提とした物語りならぬ物語り――可能性の世界における生――を試みること。夕べの平和を破り、日常に亀裂を走らせること(それはウルリヒやクラリセが言う裂け目であり、サビナの絵でもある)。われわれはいちいち「一」から始めるのではなく、かつて「遠く」だった地点から、中途から始めなくてはならない。

 

Bacon Letters Talk

フランシス・ベイコンの絵の正直な恐ろしさは、どこか外側の別の世界からやってきた怖さではなくて、聖性だの、仏性だのが(もしあるなら)すべての人間にあるようにある、根っからの恐怖だ。もっともそれは恐ろしさとも、孤独ともいえるけども、とってつけられるような意味はない。

 

ペピアットの伝記『フランシス・ベイコン』(原題:ANATOMY OF AN ENIGMA)をのろのろ読んでいるが、出て来るエピソードがいちいちおもしろい。そのエッセンスを、鳥頭だから、外部脳に記憶しておく。

 

ベイコンはルシアン・フロイド(よく知らないが、あの精神科医の孫で画家。ちなみにベイコンはフロイトの愛読者だった[p114])の肖像画を1951年に描いた[p151]。特定の人物をモデルにした最初の作品だった。そしてどうやらこの作品の原型がマックス・ブロートの撮影したフランツ・カフカのスナップ写真だったらしい。他にもカフカを典拠にしたといわれる作品がある。

(ベイコンの公式サイト Homepage | Francis Bacon を見ると、大部分の作品が閲覧できるが、1952年の Study for a Portrait あたりにカフカの面影があるかな~と思った。ただ、タイトルにフロイドの名前はない)

(そういえばベイコン狂のデヴィッド・リンチカフカゴーゴリが好きだったらしい)

ベイコンはかなりの文学通で、最先端の文学にも一通り目を通していたし、アイスキュロスシェイクスピアなど古典作家を偏愛していた。展覧会自体には行けなかったバリー・ジュール・コレクションの図録には、三島由紀夫への関心について書かれている。ベイコンの研究は活発だと思うが、この辺のテーマはまだまだ掘り下げられていない。

 

 

寒い。

とりあえずだらだら書こうかと思うが、これといって書くことがない。とりあえず寒い。どれくらい寒いかというと足の指の先がしびれるほど寒い。電気ストーブの効きもめっちゃ悪い。部屋がぜんぜん温まらない。この冬はこれからもっと寒くなっていくと思うと、いまからとても寒い。